社会的少数者の過酷な闘いを描いた社会派映画『チョコレートドーナツ』感想・考察
どうもこんにちは、fukubroです。
今回は2012年公開の映画『チョコレートドーナツ』(原題:Any Day Now)の感想・考察について書いていきたいと思います。
脚本を手掛けたジョージ・アーサー・ブルームが1970年代にアメリカで実際にあった「ゲイカップルが育児放棄されたダウン症の少年を保護」した話から着想を得て完成した本作。映画を鑑賞する際はラストに備えてハンカチをご用意ください。
映画『チョコレートドーナツ』作品情報
監督・・・トラヴィス・ファイン
脚本・・・ ジョージ・アーサー・ブルーム
トラヴィス・ファイン
キャスト・・・ アラン・カミング(ルディ)
ギャレット・ディラハント(ポール)
アイザック・レイヴァ(マルコ) ほか
制作国・・・ アメリカ
上映時間・・・ 97分
映画『チョコレートドーナツ』のストーリー(ネタバレなし)
出典:シネマトゥデイ
1970年代後半、アメリカのカリフォルニア州にある、ウエスト・ハリウッド。
地方検事局に勤めるポールは、勇気を振り絞ってゲイ・バーに入店。すると、そこでショーダンサーのルディと出会い、瞬間2人は恋に落ちます。その夜ポールの車で家まで送ってもらったルディはひとりアパートへと戻っていきました。
翌日、ルディは隣室から漏れ聞こえるラジオの爆音にたまららず苦情を言いに行きます。しかし、隣人はあいにく外出中のようで部屋から生活音は聞こえません。
意を決して隣室へと侵入するルディ。ラジオを消して振り向くとそこにはダウン症の少年が立っていました。ルディから名前を聞かれ、少年はマルコと名乗ります。彼の母親が昨晩恋人と出かけたまま帰っていないと分かったルディはしばらく保護することに。
そこで検事をしているポールにアドバイスをもらうため事務所まで足を運びますが、冷たい態度であしらわれてしまいます。
頼るあてのなくなったルディがアパートへと戻ると、管理人と家庭局の職員がマルコを探していました。
マルコの母親が薬物所持の疑いで逮捕されたという知らせとともに、マルコはそのまま家庭局へと引き取られてしまいます。家庭局の不親切な態度に納得のいかないルディでしたが、お金もなく明日暮らすのにもやっとの生活を送る彼には為す術がありません。
マルコはそのまま家庭局で孤独な暮らしを強いられることになります。
そのころ、ルディの働くバーを訪れたポールからの謝罪で2人は仲直りすることに。そして、ポールとルディは身の上話で盛り上がり、車でルディの自宅へ。
しばらく走行していると、そこに見覚えのある姿が飛び込んできます。家庭局にいるはずのマルコが夜道をひとりで歩いていたのでした。
家庭局よりもマルコが彼らと暮らすことを望んでいると知ったルディは、ポールとともに裁判所で親権を求める裁判を起こしますが…。
全米で多数の観客賞を受賞!映画の魅力を解説
1970年代に起きた実話を題材として作られた本作。
何が観る人の心を鷲掴みにしたのか?
それは俳優陣の魅力的な演技にあると思います。主役3人の演技は言うまでもなく素晴らしいものでした。
特にその中でも、ショーダンサーのゲイ役を演じたアラン・カミングがピカイチ。彼の演技には不思議と引き込まれるものがありました。物語が進むにつれて、役を飛び越えてアラン・カミングという人物に興味が湧いていきました。
彼の演技が最初から最後までセリフではなく、本音で語っているように見えてしまったから。時折見せる悲しさ、寂しさ、虚しさを滲ませた表情は観ているこちらを何とも言えない気持ちにさせます。
そして、気が付いたらアラン・カミングというひとりの人間に焦点をあてて映画を観ていました。
彼の演技には、なんというか彼のもっている深い人間性までもが表されているようで、その美しさに圧倒されました。それは同じくダウン症の少年マルコを演じたアイザック・レイヴァにも感じたことでした。
マルコが初めて画面に映ったときは正直驚きました。ダウン症の少年役をダウン症の少年が演じていたからです。しかし、よくよく考えてみるとこれまでダウン症の俳優ってなぜあまり注目されてこなかったのだろうという疑問にぶつかりました。もっと言うと、ダウン症が主役の映画って少ないですよね。
これだけ社会的にセクシュアルマイノリティや障がい者を理解しようという風潮が強まっているにもかかわらず、現実的な理解は追いついていないように感じました。だからこの映画を初めて観たとき全身に衝撃が走りました。それと同時に自分も映画を観るまでそういう世界についてあまり深く考えてこなかったことを反省させられました。
本作は内容もさることながらキャスティングも最高でした。このメンバーでなければおそらくここまでの感動は生まれなかったのではないかと思うほど息ぴったりの演技でした。何にしてもこの映画で役をこえて人として興味が湧く人物が2人もいたことに自分でも驚いています。彼らの演技には人間性を感じさせるものが確かにあったということでしょう。
映画はほぼ創作オリジナルだった?
実話を基にした映画ということで、ラストのマルコの悲劇が実際にもあったのではないかと気になる人は多いと思います。
しかし、ラストは作られた部分ということが明らかになっています。実話の部分というのは、「同じアパートに住むゲイカップルがネグレクトを受けていたダウン症の少年を保護した」というところだけで、それ以外の話の展開はすべてフィクションなのだそう。
制作サイドは実話を題材とした作品だということを大々的に宣伝してはいないものの、どこまでが実話かというのは観る側としては気になりますよね。実話を基にしたと言っておきながら、オリジナルが大部分を占める映画というのはものによりますがあまり観たいとは思いません。
しかし、本作に関してはまったく別の感情を抱きました。それは、映画の内容が実話かどうかということよりも、今まで“普通とは違う”人たちの存在を無意識ながらに自分が無視して生きていたことに気づかされ、恥ずかしく思ったからです。
普通でないということはその人にとっては武器のようなものですよね。彼らの発想力や行動力というのは、新しい発見が生まれるきっかけになります。歴史的偉人のなかにも発達障害を抱えながら成功をおさめた人物は数多く存在しますね。かの有名なエジソンやアインシュタイン、モーツァルト、レオナルド・ダ・ヴィンチも発達障害だったと知られてます。私たちがすべきことは、とても単純な意識改革です。“発達障がい者”“セクシュアルマイノリティ”と彼らをひとくくりに考えるのではなく、彼らをひとりの人間として尊重することです。
ヒューマンドラマの最高傑作と称賛される本作は、社会派映画としても高く評価されています。この映画を観て自分なりに少数派の人々への理解を深めていかなくてはと思いました。
おわりに
1970年代といえば、今よりももっとLGBTとか障がい者にとっては暮らしにくい環境だったわけですよね。(今でも理解が追いついていない部分は大いにあると思いますが)
映画を観て私が思ったこと。
ルディとマルコのことばかり取り上げてきましたが、ポールの活躍がなければそもそも映画は成り立たなかったと思います。検事である彼の知識があったからそこ、1回目の裁判でマルコを勝ち取ることができたのです。もしポールが一般人なら、相手にされることはなかったでしょう。そこに今の司法の落とし穴があると思いました。
裁判所は弱者を守るためにあるはずなのに、自分にひどい行いをしてきた産みの母より愛情を注いでくれるルディたちと暮らしたいと訴えるマルコの意見は通らなかった。
どの選択がマルコにとって幸せかは一目瞭然のはずなのに、本人の意思よりも血のつながりが優先されてしまう現実に悲しく思いました。そしてセクシュアルマイノリティへの差別にも。
こういう映画があるからこそ、私たちは今まで当たり前と思っていた常識の殻を破ることができます。LGBTや障がい者とか関係なく平等に生きられる社会がきたらいいな…と心からそう思います。
最後までご覧いただきありがとうございます。
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